マルコの妹。
その言葉がリンの胸を貫いた。
世界が遠くなる。音が遠くなる。心臓の音だけが耳の奥で鳴っている。
「リン? リン!」
ミオの声が聞こえる。でも遠い。
——マルコ。
三年前に死んだ男。リンを庇って死んだ男。
その妹が、目の前にいる。
「リン、大丈夫?」
ミオがリンの前に立った。レナとの間に割って入る。
「リンに何の用」
ミオの声が警戒している。
「話がしたいだけ」
レナが言った。声は落ち着いている。でも目は真剣だ。
「攻撃しに来たわけじゃない」
「信じられない」
「……そうね。でも、本当よ」
レナがリンを見た。
「三年間、探してた。兄と一緒にいた人を」
リンは息を吸った。肺が縮んだみたいに、うまく吸えない。
「場所を……変えましょう」
声が出た。震えている。
周囲の視線が刺さる。受付のエルマが心配そうにこちらを見ている。
「宿に来て。そこで話す」
レナが頷いた。
宿の部屋。狭い空間に三人。
リンはベッドの端に座った。ミオが隣に座る。手を握ってくれている。温かい。
レナは向かいの椅子に座った。銀髪が窓からの光で輝いている。
沈黙が流れた。
リンはレナを見た。マルコと同じ銀髪。でも目つきは違う。マルコはもっと穏やかだった。レナの目は鋭い。
「何を……聞きたいの」
リンが口を開いた。
「兄が最期に何を言ったか」
レナの声が真っ直ぐだった。
「兄は『大丈夫だって言ったのに』と言って死んだ。——どういう意味?」
リンの胸が締め付けられた。
その言葉。三年間、悪夢の中で何度も聞いた言葉。
「……」
声が出ない。
視界が狭くなる。周辺が暗くなる。
——また。
フラッシュバックが来る。
暗い。
足元が見えない。ダンジョンの中層。十二層。
かび臭い匂い。血の匂いが混じっている。
叫び声が聞こえる。誰かが死んでいる。また一人。また一人。
「リン! 逃げろ!」
マルコの声。
振り返る。マルコの背中が見える。広い背中。血に染まっている。
魔物の爪が振り下ろされる。
背中が裂ける。
血飛沫。鉄の匂い。
「——っ」
リンは声を出そうとした。出ない。
マルコが振り返る。血まみれの顔。でも、笑っている。
「お前は生きろ」
そして、倒れる。
最後の言葉が聞こえた。
「大丈夫だって……言ったのに」
恨みの声じゃない。悲しい声。
そして、闘の中、リンは一人で這って逃げた。
仲間の死体を踏み越えて。
——
「リン!」
ミオの声で現実に引き戻された。
リンは息を吸った。肺が痛い。呼吸が浅くなっていた。
ミオが手を強く握っている。
「リン、ここにいて。ミオがいるよ」
リンは頷いた。震えが止まらない。
レナがリンを見ていた。表情が複雑だった。
「……あなた、今」
「フラッシュバック」
リンが言った。声がかすれている。
「三年経っても、消えない」
レナが黙った。
リンは深く息を吸った。吐いた。
震えが少しずつ収まっていく。ミオの手が温かい。
「話すわ」
リンが言った。
「三年前のこと」
レナが身を乗り出した。
「三年前、私たちは中層十二層にいた」
リンは語り始めた。初めて、詳細に。
「パーティは五人。私は司令塔だった。戦術を立てて、指示を出す。みんなは私の指示に従って動いた」
リンの声が震えた。
「あの日、私は『このルートなら突破できる』と判断した」
「……」
「判断は間違っていなかった。でも、運が悪かった」
リンは目を閉じた。
「想定外の魔物の増援。退路を断たれた。戦うしかなかった」
「それで……」
「一人ずつ倒れていった。私は何もできなかった。指示を出すことしかできなかった。でも、もう指示を聞く人がいなくなっていった」
リンの声がかすれた。
「最後に残ったのがマルコだった。あなたの兄」
レナの目が揺れた。
「彼は私を庇った。魔物の前に立って、私を逃がそうとした」
「……」
「背中を裂かれた。それでも立っていた。『逃げろ』って言った」
リンの目から涙がこぼれた。
「私は逃げた。彼が死ぬのを見て、逃げた。仲間の死体を踏み越えて、一人で」
「……」
「彼の最後の言葉が『大丈夫だって言ったのに』だった」
リンは顔を上げた。涙で視界がぼやけている。
「あなたの兄は、私のせいで死んだ」
部屋が静まり返った。
ミオが何か言おうとした。リンが手で制した。
「これが真実よ。私が『大丈夫』と言ったから、みんなあのルートに進んだ。私の判断ミスで、みんな死んだ」
リンはレナを見た。
「恨むなら、恨みなさい。当然の権利よ」
レナは黙っていた。
長い沈黙。
そして、レナの目から涙がこぼれた。
「……そう」
レナの声が震えた。
「兄は、そう言って死んだのね」
「ええ」
「『大丈夫だって言ったのに』って」
レナが顔を覆った。嗚咽が漏れる。
「ずっと、恨んでた」
レナの声が絞り出すようだった。
「あなたを。兄を殺した女を。ずっと、ずっと」
リンは何も言えなかった。
「でも」
レナが顔を上げた。涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。
「会ってみたら……わからなくなった」
「……」
「あなたも、苦しんでる。三年間、ずっと」
レナがリンを見た。
「私だけが苦しんでたんじゃない。あなたも、苦しんでた」
「……」
「それが、わかって……わからなくなった。誰を恨めばいいのか」
レナが泣いている。声を上げて。
リンも泣いていた。静かに。
部屋に二人の泣き声が響いた。
「リンは悪くない」
ミオの声が響いた。
レナが顔を上げた。涙を拭いながら。
「——何を根拠に」
「リンはずっと苦しんでた」
ミオの声は真剣だった。
「今も苦しんでる。悪夢を見て、震えて、自分を責めてる。それだけで、わかる」
「……」
「リンを責めないで」
ミオがリンの手を強く握った。
「もう十分。リンは十分、自分を責めてる。これ以上、責めないで」
レナがミオを見た。
「……あなたは、リンの何?」
「リンと一緒にいる人」
ミオの声が揺るがなかった。
「それだけ。でも、それだけで十分」
レナが黙った。
長い沈黙。
そして、レナは立ち上がった。
「今日は帰る」
レナの声がかすれていた。
「頭の中が、ぐちゃぐちゃ。整理が必要」
「……」
「でも、また来る。まだ聞きたいことがある」
レナがリンを見た。
「逃げないでね。——私も、逃げないから」
レナが部屋を出ていった。
扉が閉まる音が響いた。
二人きりになった。
リンの手がまだ震えている。
ミオがリンを抱きしめた。強く。
「大丈夫。ミオがいる」
ミオの声が耳元で聞こえる。
リンは何も言えなかった。
涙が止まらない。声を出さずに、泣いた。
ミオの腕の中で。
三年間、蓋をしてきたものが溢れ出していた。
「リン……」
ミオが背中を撫でる。優しく。
「泣いていいよ。ミオ、どこにも行かないから」
リンは泣いた。
声を殺して。肩を震わせて。
ミオの温もりだけが、リンを支えていた。
どれくらい経っただろう。
リンの涙が止まった。目が腫れている。
ミオがまだ抱きしめている。離さない。
「……ミオ」
「うん」
「ありがとう」
「うん」
リンはミオの肩に額を押し当てた。
「私……マルコを殺したのよ」
「違う」
「私の判断ミスで——」
「違う」
ミオの声が強かった。
「リンは、助けようとした。逃げようとした。判断した。戦った。——それは殺したんじゃない」
「でも……」
「リンが生きてるのは、マルコさんが守ったから。——それは、マルコさんが選んだこと」
リンは息を呑んだ。
「リンのせいじゃない」
ミオの声が真っ直ぐだった。
「リンは悪くない。——ミオは、そう思う」
リンは何も言えなかった。
涙がまた溢れそうになる。
「ミオ……」
「うん」
「一緒にいて」
「うん。いる」
「離れないで」
「離れない。絶対」
リンはミオを強く抱きしめた。
ミオも抱きしめ返した。
二人は長い間、そうしていた。
窓の外で、日が暮れていく。
部屋が暗くなっていく。
でも、ミオの温もりだけは変わらない。
リンは目を閉じた。
——まだ終わっていない。
レナはまた来ると言った。まだ聞きたいことがあると。
逃げられない。逃げちゃいけない。
でも、今は。
今だけは、ミオの腕の中にいたかった。
「リン」
「……何」
「好き」
ミオの声が小さく聞こえた。
リンは笑った。涙が混じった笑い。
「……私も」
その言葉だけが、今のリンを支えていた。
*第22話 完*