朝の光が窓から差し込んだ。
リンは目を覚ました。体が温かい。隣にミオがいる。銀髪が枕に広がり、穏やかな寝息が聞こえる。
いつもの朝。
リンは天井を見た。木目が見える。宿の天井。何度見たかわからない天井。
体を起こそうとして、腕に重みを感じた。ミオがリンの腕を抱きしめている。離すと起きてしまう。
リンは動かなかった。もう少しだけ、このまま。
窓の外から街の音が聞こえる。物売りの声。荷車の音。朝の活気。
リンは深く息を吸った。ミオの匂いがする。温かい匂い。安心する匂い。
——これが、私たちの日常。
数週間前のことが嘘のようだった。聖カタリナ院の追っ手、ダンジョンでの分断、再会。あれから二人は変わった。
「離れられない」から「離れたくない」へ。
依存は消えていない。むしろ深まっている。でも、それでいい。それが二人の選択だった。
「……ん」
ミオが身じろぎした。琥珀色の瞳がゆっくり開く。
「リン……?」
「おはよう」
「おはよ……」
ミオが目を擦る。まだ半分眠っている。でも腕は離さない。
「起きないと」
「もうちょっと……」
「依頼があるでしょ」
「うん……でも……」
ミオがリンに抱きつく。体温が直接伝わってくる。温かい。
リンは諦めた。髪を撫でる。銀色の髪が指の間をすり抜ける。柔らかい。
「五分だけよ」
「うん」
ミオが嬉しそうに目を閉じる。
リンも目を閉じた。心地いい。
——これでいい。
朝食は宿の食堂で取った。
パンと、スープと、少しの野菜。質素だが、温かい。
リンはパンを千切りながらミオを見た。向かいの席で、ミオがスープを啜っている。美味しそうに。
「今日は深層?」
ミオが聞いた。
「ええ。十五層まで」
「うん。楽しみ」
ミオが笑う。無邪気に。
以前のミオは「楽しみ」とは言わなかった。「わかった」と言うだけだった。指示を待つだけ。
今は違う。自分で「楽しみ」と言える。
——少しずつ、変わっている。
「リン、パン食べないの?」
「食べるわよ」
「早く食べないと、ミオが食べちゃうよ」
「……取らないで」
リンはパンを齧った。少し固い。でも、悪くない。
ギルドまでの道を歩く。
石畳の道。朝の光。行き交う人々。
リンとミオは手を繋いでいた。
以前は、ミオがリンの服の裾を掴むだけだった。それがいつの間にか、手を繋ぐようになった。
リンから繋いだ。自分から。
小さな手。でも温かい。握り返してくる力は強い。
——こうしていると、安心する。
「リン」
「何」
「今日、終わったら、何する?」
「……考えてなかった」
「じゃあ、一緒にご飯食べよ。美味しいお店見つけた」
「また?」
「うん。パンが美味しいんだって」
「あなた、パンばっかり」
「パン好きだもん」
ミオが笑う。リンも少し笑った。
ギルドの建物が見えてきた。大きな石造りの建物。冒険者たちが出入りしている。
扉を開ける。中は賑やかだった。
「あら、おはよう」
受付のエルマが声をかけてきた。茶髪のポニーテール。いつもの笑顔。
「おはようございます」
「今日も深層? すごいわね、最近」
「ええ」
「気をつけてね。十五層は罠が多いって聞くから」
「わかってます」
リンは受付で依頼書を受け取った。討伐依頼。深層十五層の魔物。
「リンさん、ミオちゃん」
エルマが小声で言った。
「何ですか」
「二人とも、最近いい顔してる」
リンは何も言えなかった。
「以前より、ずっと」
エルマが微笑む。
「……余計なお世話です」
「はいはい。気をつけてね」
リンは背を向けた。ミオが後ろからついてくる。
「リン、顔赤い」
「うるさい」
「よう、調子良さそうだな」
声をかけてきたのはカインだった。金髪の男。Bランク冒険者。ライバルパーティのリーダー。
「カイン」
「深層か? 俺たちも今から行くところだ」
カインの後ろに三人のパーティメンバーがいる。いつもの四人組。
「お前ら、本当に二人だけで行くのか?」
「ええ」
「相変わらずだな。……まあ、成果出てるし、俺が言うことじゃないか」
カインが肩をすくめる。
「前より、なんか雰囲気変わったな」
「……そう?」
「ああ。なんつーか、安定してる」
カインがリンとミオを見た。
「いいことなんだろうな。多分」
リンは何も答えなかった。
「じゃあな。死ぬなよ」
「あなたもね」
カインが手を振って去っていく。
ミオがリンの手を握った。
「行こ、リン」
「……ええ」
深層十五層。
薄暗いダンジョンの中を進む。かび臭い匂い。湿気。足音が反響する。
リンは魔力を感知していた。周囲の魔物の気配。位置。強さ。
「前方、三体。左に一体。右は……クリア」
「うん」
ミオが剣を構える。銀色の刃が薄暗い光を反射する。
「まず左から。私が牽制する。合図で突入」
「わかった」
リンは杖を構えた。魔力を集中させる。手のひらが熱くなる。
「——今」
リンが魔法を放つ。閃光。左の魔物が怯む。
その瞬間、ミオが駆け出した。
速い。以前よりずっと。
ミオの剣が閃く。一太刀。魔物が崩れ落ちる。
「次、前方」
「うん!」
ミオが振り返らずに突進する。リンの指示を信じて。
リンは魔力感知を続けた。三体の魔物の動き。ミオの位置。
「右に避けて。——今」
ミオが右に跳ぶ。魔物の爪が空を切る。
着地と同時に斬撃。一体目、沈む。
「後ろ!」
ミオが振り返る。背後から迫る魔物。リンが魔法を放つ。氷の槍。魔物の動きが止まる。
その隙にミオが斬る。二体目。
「最後、正面」
「——っ!」
ミオが突進する。剣を振りかぶる。
魔物が爪を振り上げる。
ミオの方が速い。
剣が魔物の胴を裂く。血飛沫。鉄の匂い。
魔物が崩れ落ちた。
静寂。
「……終わり」
リンが息を吐いた。
「やった!」
ミオが振り返る。血に汚れた顔で笑っている。
「よくやった」
「リンの指示、すごい。全部見えてた」
「当たり前でしょ。私がいるんだから」
リンはミオに近づいた。布を取り出す。
「顔、汚れてる」
「え? あ、血か」
リンがミオの顔を拭く。ミオが目を閉じる。
「くすぐったい」
「動かないで」
「うん」
血を拭き取る。ミオの顔が綺麗になる。
「——怪我は?」
「ない。大丈夫」
「本当に?」
「うん。リンの指示通りに動いたから」
リンは深く息を吐いた。安堵。
「帰りましょう」
「うん」
二人は歩き出した。
手を繋いで。
夜。
宿の部屋。狭いベッド。
リンは横になった。体が疲れている。でも心地いい疲れ。
隣にミオがいる。もう眠っている。規則正しい寝息。
リンは天井を見た。
——良い一日だった。
目を閉じる。
眠りに落ちていく。
——
暗い。
足元が見えない。
かび臭い匂い。血の匂い。鉄の匂い。
どこかで誰かが叫んでいる。
「リン! 逃げろ!」
声が聞こえる。男の声。
マルコの声。
「リン、お前は生きろ!」
背中が見える。広い背中。血に染まっている。
裂ける。
背中が裂ける。
「——っ」
リンは声を出そうとした。出ない。
「大丈夫だって言ったのに」
マルコの声。恨みの声じゃない。悲しい声。
「大丈夫だって……言ったのに……」
闇が広がる。
血の匂い。
——
リンは目を覚ました。
汗をかいている。息が荒い。心臓が脈打っている。
——夢。
いつもの夢。
マルコの夢。
リンは体を起こした。窓の外は暗い。まだ夜中。
隣を見る。ミオが眠っている。起こしていない。よかった。
リンは静かにベッドを降りた。
窓辺に立つ。月が出ている。街は静か。
リンは自分の手を見た。震えている。
——三年。
三年経っても、消えない。
マルコの声。マルコの背中。血の匂い。
「大丈夫だって言ったのに」。
リンは深く息を吸った。吐いた。
震えが止まらない。
——私のせいで、マルコは死んだ。
その事実は消えない。
でも。
リンはミオを見た。ベッドで眠っているミオ。銀髪が月明かりに照らされている。
——今は、ミオがいる。
それだけが救いだった。
リンはベッドに戻った。ミオの隣に横になる。
ミオの体温が伝わってくる。温かい。
リンはミオの背中に額を押し当てた。
震えが、少しずつ収まっていく。
——大丈夫。ミオがいる。
リンは目を閉じた。
今度は、夢を見なかった。
翌朝。
ギルドに行くと、見慣れない顔がいた。
銀髪の女性。二十歳くらい。長身。鋭い目つき。
新人冒険者らしい。装備は質素だが、身のこなしが違う。訓練された動き。
その女性がリンを見ていた。
じっと。
リンは違和感を覚えた。視線が刺さる。
「リン?」
ミオが首を傾げる。
「……何でもない」
リンは視線を逸らした。気のせいだろう。
受付で依頼を受け取る。今日も深層。
ふと振り返ると、銀髪の女性がエルマに何か聞いていた。
「あの黒髪の方……元Aランクの?」
声が聞こえた。
リンは足を止めた。
「ええ、リンさんね。今はBランクだけど」
「そう……」
銀髪の女性がリンを見た。
目が合う。
深い目。何かを探るような目。恨みとも違う。悲しみとも違う。
リンは目を逸らした。
「行くわよ、ミオ」
「うん」
ギルドを出る。
背中に視線を感じた。
振り返らなかった。
ダンジョンから帰還したのは夕方だった。
ギルドで報告を済ませる。
まだいた。
あの銀髪の女性が。
ギルドの隅で、リンを見ている。
リンは無視しようとした。
女性が近づいてくる。
「あなたがリン……?」
声が聞こえた。
リンは振り返った。
銀髪の女性が目の前に立っている。背が高い。リンより頭一つ分。
目が真剣だった。
「……誰」
「話がしたい」
女性の声が震えている。
「逃げないで」
リンは何も言えなかった。
ミオがリンの前に出た。
「リンに何の用」
「——私は、レナ」
女性が言った。
「マルコの妹」
世界が止まった。
マルコ。
その名前が、リンの胸を貫いた。
「兄がなぜ死んだか」
レナの目が真っ直ぐリンを見ている。
「あなたに、聞きたいことがある」
リンの手が震え始めた。
*第21話 完*