朝の光が窓から差し込んだ。
リンは目を覚ました。体が重い。傷が痛む。でも昨日よりは楽になっている。
隣の簡易ベッドでミオが寝息を立てている。リンはミオを見た。包帯が白い。銀髪が枕に広がっている。寝顔は穏やか。
リンはベッドから体を起こした。包帯を巻いた腕がきしむ。鈍い痛みが脈打つように内側から押し広がる。
「……っ」
小さく息を吐く。痛いが、我慢できる。
「リン?」
ミオが目を覚ました。琥珀色の瞳がリンを捉える。
「起こした?」
「ううん。大丈夫」
ミオもベッドから起き上がる。動きがぎこちない。傷が痛むのだろう。でも顔には出さない。
「今日、ギルドマスターのところ」
「……ええ」
リンは窓の外を見た。街が朝の活気を帯び始めている。遠くから物売りの声が聞こえる。
何を言われるだろう。
でも、怖くはなかった。ミオがいる。それだけで十分だった。
「行きましょう」
「うん」
二人はベッドを降りた。
ギルドマスター室の扉の前で、リンは深く息を吸った。
肺の奥まで空気が入っていく。吐く。肩から力が抜ける。
ミオがリンの服の裾を掴んでいる。いつもの癖。
以前のリンなら、何もしなかった。掴まれるがまま、黙っていた。
でも今は違う。
リンはその手に自分の手を重ねた。
「大丈夫よ」
「うん」
ミオが頷く。でも手は震えている。リンの手も震えている。
リンは扉をノックした。
「入れ」
ヴェルナーの声。
リンは扉を開けた。ミオが後ろからついてくる。
部屋の奥、大きな机の向こうにヴェルナーが座っている。白髪の老人。元Sランク冒険者。ギルドの責任者。
厳しい目つき。でも今日は少し違う。何か柔らかい。
「座れ」
ヴェルナーが手で椅子を示した。リンとミオは椅子に座る。
ヴェルナーはしばらく二人を見ていた。何かを確かめるように。
そして、口を開いた。
「聖カタリナ院の件は処理した」
リンは息を呑んだ。
「もう追っ手は来ない。ギルドが裏で動いた。あの孤児院はしばらく営業停止だ」
ヴェルナーの声は淡々としていた。
「理由は?」
リンが聞いた。
「人身売買の疑い。証拠は十分にあった。ミオだけじゃない。他にも被害者がいた」
ヴェルナーは腕を組んだ。
「ギルドとしては、冒険者を守る義務がある。外部が干渉してくるのは許さん」
リンはヴェルナーを見た。表情は変わらない。でも目の奥に何かがある。
「……ありがとうございます」
リンの声が小さく出た。
「礼を言われるようなことじゃない。これは投資だ。お前たちは成果を出している。守る価値がある」
ヴェルナーはいつもの冷徹な口調に戻った。
でも、リンには分かった。これは優しさだ。ヴェルナー流の。
ミオが小さく頭を下げた。
「ありがとう」
「……まあ、いい」
ヴェルナーは肩をすくめた。
そして、視線を鋭くした。
「お前たち、変わったな」
リンは息を呑んだ。
「離れていた間、お前たちは成長した」
ヴェルナーの声が静かに響いた。
「リン、お前は自分で動けるようになった。ミオ、お前は自分で考えられるようになった」
リンは何も言えなかった。ヴェルナーの目は全てを見透かしている。
「だが」
ヴェルナーは言葉を区切った。
「依存が消えたわけじゃない。それはわかってるな」
リンは頷いた。
「……わかってます」
「むしろ深まっている。以前は『仕方ない』と受け入れていた。今は違う」
ヴェルナーは二人を見た。
「お前たちは『選んだ』」
リンは何も答えられなかった。その通りだった。
ミオが口を開いた。
「でも、一緒がいい」
ミオの声は小さいが、確かだ。
「離れられなくても、それでもいい。リンと一緒なら、ミオはそれでいい」
ヴェルナーはミオを見た。そして、リンを見た。
「……リン、お前は?」
リンは深く息を吐いた。
「私も」
リンの声が静かに響いた。
「私も、ミオと一緒がいい。離れられなくても、それでもいい」
ヴェルナーはしばらく黙っていた。
そして、肩をすくめた。
「……好きにしろ」
ヴェルナーの声が穏やかだった。
「結果を出し続ける限り、何も言わん。お前たちがどう生きようと、俺の知ったことじゃない」
リンはヴェルナーを見た。厳しい表情。でも目は笑っている。
「ただし」
ヴェルナーは指を立てた。
「死ぬな。生きて結果を出せ。それだけだ」
「……はい」
リンは頷いた。ミオも頷く。
「行け」
ヴェルナーが手を振った。
リンとミオは立ち上がった。扉に向かう。
扉を開けようとした時、ヴェルナーの声が背中に届いた。
「——お前たちなら、大丈夫だ」
リンは振り返った。ヴェルナーはもう書類に目を落としている。
リンは何も言わず、扉を閉めた。
ギルドの外に出ると、昼の光が二人を包んだ。
街は賑やかだった。人々が行き交い、物売りが声を張り上げ、子供たちが走り回っている。
リンとミオは並んで歩いた。
いつもの風景。でも、少し違う。
何が違うのか、リンにはよくわからなかった。でも確かに違う。
「リン」
ミオが呼んだ。
「何?」
「私たち、変わったのかな」
リンはミオを見た。琥珀色の瞳が揺れている。
「……ええ。変わったわ」
リンは前を向いた。
「でも、変わらない部分もある」
「どこ?」
「一緒、ってこと」
ミオが笑った。小さく、でも嬉しそうに。
「うん。それは変わらない」
二人は歩き続けた。
宿に向かう道。何度も通った道。石畳の道。
風が吹く。髪が揺れる。リンの黒髪、ミオの銀髪。
リンは空を見上げた。青い。雲が流れている。
「ミオ、前より強くなった気がする」
ミオの声が聞こえた。
「んー……わかんない。でも、前よりできることが増えた」
リンはミオを見た。
「私も」
リンの声が静かに響いた。
「私も、できることが増えた。一人でも、少しは動ける」
「でも」
二人は同時に言った。
そして、顔を見合わせて笑った。
「リン、言って」
「……あなたが先」
ミオが少し考えた。そして、言った。
「一人でもできる。でも、一緒がいい」
リンは深く息を吐いた。
「私もよ。一緒がいい」
二人は手を繋いだ。
小さくて冷たい手。でも握り返してくる力は強い。
そのまま歩いた。宿まで。手を繋いだまま。
夜。
狭いベッド。二人で寝るには窮屈だが、もう慣れた。
リンは横になった。ミオが隣に横になる。体温が伝わってくる。あったかい。
窓から月明かりが差し込んでいる。静かな夜。遠くから街の音が聞こえる。でも小さい。
「リン」
ミオが呼んだ。
「何?」
「もう離れないよね」
リンはミオを見た。琥珀色の瞳が月明かりに照らされている。
「……ええ」
リンは頷いた。
「離れないわ」
「約束?」
ミオの声が小さい。
リンは深く息を吐いた。
「——離れないわ。離れたくない」
リンの声が静かに響いた。
「以前は『離れられない』だった。でも今は違う。『離れたくない』のよ」
ミオが目を見開いた。
「それって……」
「私が選んだの。あなたと一緒にいることを」
リンはミオの手を握った。
「あなたがいないと不安になる。手が震える。呼吸が浅くなる。それは今も変わらない」
リンの声が震えた。
「でも、それでもいい。あなたと一緒なら、それでいい」
ミオの目が潤んだ。
「リン……」
「これでいい、じゃなくて。これがいいの」
リンはミオを見た。
「わかる?」
ミオは頷いた。涙が零れそうになっている。
「うん。わかる」
ミオがリンに抱きついた。
「ミオも。ミオも同じ」
ミオの声が震えた。
「リンがいないと怖い。何をすればいいかわからなくなる。それは今も変わらない」
ミオの腕がリンを強く抱きしめる。
「でも、それでもいい。リンと一緒なら、それでいい」
リンはミオの背中に手を回した。銀髪を撫でる。柔らかい。
「ミオ」
「うん」
「ずっと一緒よ」
「……うん」
二人は抱き合ったまま、しばらくそうしていた。
ミオの体温が伝わってくる。温かい。心臓の音が聞こえる。リンの心臓と、ミオの心臓。同じリズム。
リンは目を閉じた。涙が出そうになる。こらえようとしても、目頭が熱い。
でも、これは悲しい涙じゃない。
安心の涙。
ミオがいる。それだけで十分だった。
「リン、好き」
ミオの声が小さく聞こえた。
リンは息を呑んだ。
「……私も」
リンの声が震えた。
「私も、好きよ」
ミオが顔を上げた。涙が零れている。でも笑っている。
「えへへ」
ミオが笑った。子供みたいに。無邪気に。
リンも笑った。涙が零れた。でも止まらない。
「泣いてる」
「……あなたもでしょ」
「うん」
二人は笑いながら泣いた。
そして、また抱き合った。
ミオの匂いがする。本と、ちょっと埃っぽい。でも安心する匂い。
リンはミオの背中を撫でた。ミオの呼吸が聞こえる。深い呼吸。落ち着いている。
リンも深く息を吸った。肺の奥まで空気が入っていく。
そして、吐いた。
肩から力が抜ける。自分で張り詰めていたことに気づく。
「ミオ、眠りましょう」
「うん」
二人は横になった。でもミオはリンから離れない。くっついたまま。
「離さないから」
リンがそう言った。
「うん。ミオも離さない」
ミオが答えた。
リンはミオの頭を撫でた。銀髪が指の間をすり抜ける。柔らかい。
ミオの呼吸が深くなっていく。眠りに落ちていく。
リンも目を閉じた。
眠気が襲ってくる。穏やかな眠気。
ミオの体温が心地いい。
窓の外から月明かりが差し込んでいる。静かな夜。
リンは最後に思った。
これが、私たちが選んだ道。
一人でも動ける。一人でも考えられる。
でも、一緒がいい。
離れられない、じゃなくて。
離れたくない。
依存は深まった。でも、それは私たちが選んだこと。
二人で一人。
それが、私たちの道。
リンは眠りに落ちた。ミオと一緒に。
温かい眠り。
安心の眠り。
二人で一人の眠り。
窓の外、月が静かに二人を見守っていた。
狭いベッドで、二人は寄り添って眠っている。
リンの黒髪とミオの銀髪が混ざり合っている。
二人の呼吸が重なる。同じリズム。
離れない。
離れたくない。
それが、二人が選んだ道。
——二人で一人。
それが、二人の答え。