一歩ごとに、体が軋んだ。
ダンジョンの通路は同じ景色が続く。石の壁、かび臭い空気、遠くで聞こえる水音。来た道を戻るだけなのに、足が重い。膝が笑いそうになる。それでもリンは歩いた。
隣でミオも歩いている。剣を杖代わりに、一歩一歩踏みしめる。肩で息をしている。白い服は汚れて、あちこちに血が滲んでいる。
リンはミオの腕を見た。包帯を巻いた部分から、赤い染みが広がっている。自分の腕も同じだ。応急処置だけで、ここまで来た。
「ミオ、歩ける?」
リンの声が通路に響いた。自分の声が遠い。疲労で意識が遠のきそうだ。
「うん。リンは?」
ミオが振り返った。琥珀色の瞳に心配そうな色がある。
「……まあ、なんとか」
リンは肩をすくめた。肩が重い。首を回すと、ゴリゴリと音がした。
二人はゆっくりと歩き続けた。魔力は枯渇している。頭が重い。視界がぼやけそうになって、まばたきで戻す。
でも、止まらなかった。止まったら、倒れそうだった。
ミオが時々リンを見る。リンも時々ミオを見る。お互いに確認する。まだ歩ける。まだ大丈夫。
通路が上り坂になった。階段が現れる。登るのが辛い。一段ごとに息が切れる。
「リン、手……貸す」
ミオが手を伸ばした。リンはその手を握った。冷たくて、震えている。でも握り返してくる力は強い。
二人で階段を登った。ミオの手が温かくなっていく。リンの手も温かくなる。
上り続けた。
どれくらい歩いただろう。時間の感覚がない。でも、確かに進んでいる。
そして、光が見えた。
出口。
遠くに、朝日が差し込んでいる。
リンは足を止めた。ミオも止まる。
光を見た。
まぶしい。目を細めても、光が目に刺さる。でも温かい。久しぶりに感じる温かさ。
「……帰れた」
リンの声が小さく漏れた。
「リン、光」
ミオが光に手を伸ばした。指先に光が当たる。
「朝だ……生きてる」
ミオの声が震えた。笑っているのか、泣いているのか、わからない声。
リンは深く息を吸った。肺の奥まで空気が入っていく。ダンジョンの中とは違う、外の空気。土の匂い。草の匂い。
「行きましょう」
リンがミオの手を引いた。ミオが頷く。
二人は光に向かって歩いた。
そして、地上に出た。
朝日が二人を包んだ。暖かい。肌に触れる温度が心地いい。風が吹く。髪が揺れる。
リンは目を閉じた。肩から力が抜ける。自分で張り詰めていたことに気づく。
「ミオ」
「うん」
ミオが隣にいる。それだけで安心する。
二人はしばらくそうしていた。朝日を浴びて。風に吹かれて。生きていることを確かめて。
そして、ギルドに向かった。
ギルドの扉を開けた瞬間、周囲の視線が集まった。
リンは自分たちがどんな姿か、想像できた。傷だらけ。血と汚れにまみれた服。疲労で目の下にクマができている。普通じゃない。
受付のエルマが目を見開いた。
「リンさん! ミオちゃん!」
エルマが駆け寄ってきた。表情が驚きから心配に変わる。
「大丈夫ですか!? 何があったんですか!?」
リンは答えようとして、言葉が出なかった。疲労で思考がまとまらない。
「……長い話」
リンはそれだけ言った。
「とにかく、ドクを呼びます!」
エルマが走って奥に行く。周囲の冒険者たちがざわめいている。
「あの二人、何と戦ったんだ」
「深層か? いや、もっと危険な……」
リンは周囲の声を聞き流した。説明する気力がない。
ミオがリンの服の裾を掴んだ。いつもの癖。リンはミオの手に自分の手を重ねた。
「大丈夫よ」
リンがそう言った。でもミオの手は震えている。自分の手も震えている。
ドクが現れた。
「また来たのか。……ひどいな」
ドクの第一声がそれだった。禿頭の男が丸眼鏡の奥から二人を見る。
「医療室へ。すぐに」
ドクがリンとミオを連れて奥に行く。冒険者たちの視線が背中に刺さる。
医療室のベッドに座らされた。ミオは隣のベッド。
ドクがリンのローブを脱がせる。傷が露わになる。腕、肩、脇腹。切り傷、打撲、擦り傷。
「よく生きてたな。正直、驚いてる」
ドクが薬を取り出した。瓶の蓋を開ける。鼻を突く匂い。消毒液。
「傷は治る。時間はかかるが」
ドクがリンの傷に薬を塗った。
熱い。
まず熱さが来て、遅れて鋭い痛みが走る。リンは歯を食いしばった。
「我慢しろ。動くな」
ドクの手が丁寧に傷を処理していく。薬が染みる。痛い。でも我慢する。
隣でミオも同じことをされている。ミオは声を出さない。痛覚が鈍い。でも顔は少し歪んでいる。
包帯を巻かれる。腕、肩、脇腹。ぐるぐると巻かれていく。締め付けられる感覚。でも安心する。守られている感じ。
「骨は大丈夫だ。内臓も問題ない。傷も浅い。運がよかったな」
ドクがリンの処置を終えた。ミオの方に行く。
リンは包帯を巻かれた腕を見た。白い布が赤く染まっている。まだ血が滲んでいる。でも止まるだろう。
ミオの処置も終わった。ミオも包帯だらけ。
ドクが二人を見た。
「——お前ら、変わったな」
ドクの声が穏やかだった。
「以前のお前たちなら、こんな傷は負わなかった。もっと慎重に戦ってた」
リンはドクを見た。
「……何が言いたいの」
「何かあったんだろう」
ドクは腕を組んだ。
「でも、生きて帰ってきた。それが全てだ」
ドクは肩をすくめた。
「休め。今日は無理するな」
ドクが医療室を出て行く。
リンとミオだけが残った。
静寂。
医療室には二人だけ。外の喧騒が遠い。
リンはベッドに横になった。体が沈む。柔らかい。久しぶりのベッド。
隣でミオも横になっている。二人とも天井を見ている。
しばらく、何も言わなかった。
そして、ミオが口を開いた。
「リン」
「……何」
「ミオ、変わった?」
リンはミオを見た。ミオも横を向いて、リンを見ている。琥珀色の瞳が揺れている。
「ええ」
リンは頷いた。
「変わったわ。いい意味で」
「ミオ、自分で考えられた」
ミオの声が小さい。でも確かだ。
「リンがいないとき、怖かった。でも、考えた。リンを探すって、自分で決めた」
リンは天井を見た。
「私も」
リンの声が静かに響いた。
「私も、自分で動けた。ミオがいないとき、怖かった。でも、動いた。ミオを探すって、自分で決めた」
二人は天井を見たまま、言葉を続けた。
「でも」
リンとミオが同時に言った。
二人は顔を見合わせた。そして、笑った。
「リン、言って」
「……あなたが先」
ミオが少し考えた。そして、言った。
「ミオ、自分で考えられた。でも、リンと一緒がいい」
リンは深く息を吐いた。
「私も。自分で動けた。でも、ミオと一緒がいい」
二人は見つめ合った。
「変わったのかな、ミオたち」
「……ええ。変わったわ」
リンは起き上がった。ミオも起き上がる。
二人はベッドの端に座って、隣り合った。
「でも、一緒なのは変わらない」
ミオがリンの手を握った。リンも握り返す。
「……ええ」
リンはミオの手を見た。包帯を巻かれた手。傷だらけの手。でも温かい。
「一緒がいい」
ミオが頷いた。
「うん。ずっと一緒」
二人は手を繋いだまま、しばらくそうしていた。
医療室の窓から朝日が差し込む。温かい光。
リンは目を閉じた。疲労が襲ってくる。眠りそうだ。
「ミオ、少し寝る」
「うん。ミオも」
二人はベッドに横になった。手を繋いだまま。
眠りに落ちる前、リンは思った。
私たちは変わった。でも、変わらない。
一人でも動ける。一人でも考えられる。
でも、一緒がいい。
それだけは変わらない。
目を覚ますと、夕方だった。
窓から夕日が差し込んでいる。オレンジ色の光。
リンは体を起こした。傷がまだ痛い。でも朝よりは楽になっている。
隣でミオも目を覚ましている。
「リン、起きた?」
「……ええ」
リンは包帯を確認した。血は止まっている。
医療室の扉が開いた。
エルマが顔を出す。
「リンさん、起きましたか?」
「……ええ」
「ギルドマスターが、お話があるそうです」
エルマの表情が少し硬い。
「今ですか」
「明日でもいいそうです。でも、早めがいいって」
リンはミオを見た。ミオも頷く。
「……わかったわ。明日行く」
エルマが頷いて、医療室を出て行く。
リンは深く息を吐いた。
「ヴェルナー、何の話かしら」
「わかんない」
ミオが首を傾げる。
「でも、大事な話なのかな」
「……多分ね」
リンは窓の外を見た。夕日が沈んでいく。
明日、ヴェルナーと話す。
何を言われるだろう。
でも、怖くはなかった。
ミオがいる。それだけで十分だった。
「ミオ、帰りましょう」
「うん」
二人はベッドから降りた。傷が痛むが、歩ける。
医療室を出る。ギルドの廊下を歩く。
周囲の視線が集まる。でも気にしない。
二人は並んで歩いた。
手を繋いで。
一緒に。
これからも、ずっと一緒に。
それだけは、変わらない。