ミオは暗闇の中で目を開けた。
体が痛い。全身が悲鳴を上げている。肩が、腰が、足が、それぞれ別の痛みを主張している。落ちた時の衝撃が、まだ体の奥に残っている。
でも動ける。骨は折れていない。
ミオは体を起こした。手のひらが濡れた石床を押す。冷たい。湿気が肌にまとわりつく。かび臭い匂いが鼻をつく。
周囲を見た。
暗い。松明が転がっている。拾う。火がまだついている。光が狭い空間を照らす。
壁に囲まれている。天井が低い。上を見上げる。崩れた床の跡が遠くに見える。戻れない。
リンがいない。
ミオの心臓が跳ねた。
「リン……?」
声が震えた。壁に反響する。でも返事はない。
ミオは立ち上がった。足がふらつく。壁に手をついて支える。
「リン!」
叫ぶ。声が空間に広がる。でも返事はない。
静寂だけが、ミオを包んでいる。
ミオの呼吸が浅くなった。肺が縮んだみたいに、うまく空気が吸えない。心臓が喉まで上がってきたような圧迫感。
リンがいない。
指示がない。
どうすればいい。
ミオは松明を持ったまま、その場に立ち尽くした。手が震える。光が揺れる。影が壁を這う。
どうすればいいの。
ミオの頭の中で、声が響いた。
孤児院の管理者の声。冷たい声。
「考えるな。言われた通りにしろ」
ミオは頭を振った。違う。違う。
「自分で判断するな。お前は従うだけでいい」
声が続く。耳の奥で、何度も繰り返される。
「考えたお前が悪い。罰だ」
暗い部屋に閉じ込められた記憶が蘇る。冷たい床。何も見えない闇。一人で震えていた記憶。
ミオは壁に背中をつけて座り込んだ。膝を抱える。
考えちゃだめ。考えちゃだめ。
でも、リンがいない。
誰も指示してくれない。
誰も教えてくれない。
どうすればいいかわからない。
「わかんない、わかんない……」
ミオの声が、震えた。過呼吸気味になる。呼吸が浅い。息を吸おうとしても、肺の半分しか膨らまない。
手が震える。松明を持つ手が震える。冷や汗が背中を伝う。服が肌に張り付いて不快。
「リン……リン……」
ミオはリンの名前を繰り返した。でも返事はない。
暗闇が、ミオを押しつぶしそうになる。
寒い。リンのあったかさがない。リンの匂いがない。リンの声がない。
一人だ。
ミオは目を閉じた。
でも、心臓が打っている。
リンを探さないと。
リンを守らないと。
それだけは、ミオが決めたこと。
唯一の、自分で決めたこと。
ミオは目を開けた。でも体が動かない。足が竦む。
どっちに行けばいいのかわからない。
何をすればいいのかわからない。
*
ミオは松明を持ったまま、壁に背中をつけて座っていた。
時間の感覚がない。どれくらい経ったのかわからない。
でも、このままじゃだめだ。
リンを探さないと。
でもどうやって。
ミオは周囲を見た。通路が二つある。どっちに行けばいい。
わからない。
リンなら、わかる。リンなら、すぐに判断できる。
でもリンがいない。
ミオは深く息を吸った。肺の奥まで空気が入っていく。でもすぐに吐き出す。また吸う。また吐く。
呼吸を整える。
リンを守る。
それだけは、ミオが決めた。
だったら、動かないと。
ミオは立ち上がった。足が震える。でも踏ん張る。
「リンを探す。ミオが、探す」
声に出した。自分の声が、震えている。でも声に出す。
「こわい。でも、動く」
ミオは一歩踏み出した。足が重い。でも動く。
二歩目。三歩目。
右の通路を選んだ。理由はない。ただ、何となく。
考えるな、と言われてきた。
でも今は、考えないと。
リンを探すには、考えないと。
ミオは松明を掲げて、通路を進んだ。足音が石床に響く。一歩ごとに、恐怖が押し寄せる。でも止まらない。
リンを守る。
それだけを考えて、前に進む。
通路が続く。曲がる。また続く。
どこまで行けばいいのかわからない。でも進む。
その時、前方から気配を感じた。
ミオは立ち止まった。松明の光が、何かを照らす。
魔物だ。
人の背丈ほどの蜘蛛。八つの脚が石床を叩いている。
ミオは剣を構えた。手が震える。でも握る。
リンがいたら、指示してくれる。
「まず右から」「距離を取って」「一度に相手にしないで」
リンの声が、頭の中で響く。
でもリンがいない。
ミオは自分で判断しないと。
どうすればいい。
蜘蛛が近づいてくる。
ミオは剣を握り直した。震えが止まらない。でも動く。
前に踏み出す。剣を振る。
蜘蛛の脚を斬る。緑色の体液が飛び散る。
でも浅い。致命傷じゃない。
蜘蛛が反撃する。脚がミオに向かってくる。
ミオは横に跳んだ。脚が空を切る。
もう一度剣を振る。今度は深く。蜘蛛の頭を斬る。
蜘蛛が倒れた。動かない。
ミオは呼吸を整えた。心臓がうるさい。全身が震えている。
でも、倒せた。
一人で、倒せた。
リンがいなくても、倒せた。
ミオは前に進んだ。
*
リンは壁に背中をつけて座り込んでいた。
暗い。松明の光が弱い。でもぼんやりと見える。
狭い空間。壁に囲まれている。上を見上げる。崩れた床の跡が見える。高い。戻れない。
ミオがいない。
リンの心臓が、強く打っている。
呼吸が浅い。肺が縮んだみたい。うまく空気が吸えない。
手が震える。握ろうとしても、握れない。爪が掌に食い込む。でも握れない。
視界が狭くなる。周辺が暗い。心臓の音だけがうるさい。
リンの頭の中で、声が響いた。
マルコの声。
「——お前は生きろ」
違う。今は違う。
でも声が止まらない。
暗いダンジョンの中。松明の光が、壁に影を作っている。
リンは指示を出している。
「左に2体、右に1体。まず右から」
計画通り。完璧だ。
でも、崩れた。
増援。退路が塞がれる。
一人が倒れる。また一人。また一人。
マルコがリンを庇う。背中が裂ける。血の匂い。鉄の匂い。舌の上にも広がるような、あの匂い。
「大丈夫だって言ったのに……」
マルコの声が遠くなる。
暗闇の中、一人で這って逃げる。
また失敗した。また誰かを死なせた。
私の判断が間違っていた。
私が動けなかったから。
私が——
「——っ」
リンは頭を振った。
過呼吸気味になる。視界がぼやける。耳鳴りがする。
違う、違う、これは今じゃない。
でも体が震える。止まらない。
また失敗した。
ミオを失った。
また一人になった。
私が動かなかったから。
私が判断を間違えたから。
「だめ、だめだめだめ……」
リンの声が、震えた。
涙が出そうになる。こらえようとしても、目頭が熱い。
でも、泣けない。泣いてる場合じゃない。
リンは深く息を吸った。肺の奥まで空気が入っていく。でもすぐに吐き出す。また吸う。また吐く。
呼吸を整える。
でも今回は、違う。
ミオはまだ生きている。
はず。
きっと。
生きてる。
リンは立ち上がった。足がふらつく。壁に手をついて支える。冷たい石の感触。
「ミオを探す」
声に出した。自分の声が、震えている。でも声に出す。
「私が動く。私が探す」
でも足が進まない。
また失敗したら。
また判断を間違えたら。
ミオが死んだら。
リンの足が、竦んだ。
でも、ミオを見捨てられない。
ミオがいないと、私は何もできない。
ミオがいないと、私の存在意義がない。
リンは一歩踏み出した。足が震える。でも踏ん張る。
二歩目。三歩目。
前に進む。
通路がある。暗い。でも進む。
松明を拾う。火をつける。光が広がる。
リンは魔力を感じ取った。魔物の気配。近い。
リンは魔法を集中した。でも手が震える。魔力が集まらない。使いすぎた。限界が近い。
でも、やるしかない。
リンは魔力を絞り出した。魔法弾を作る。小さい。でも撃てる。
前方から、魔物が現れた。小型の獣。牙を剥いている。
リンは魔法弾を放った。獣に当たる。爆発。獣が倒れる。
リンは呼吸を整えた。心臓がうるさい。全身が震えている。
でも、倒せた。
一人で、倒せた。
ミオがいなくても、倒せた。
リンは前に進んだ。
*
ミオは通路を進んでいた。
魔物を何体か倒した。傷が増えている。肩に爪痕。腕に切り傷。熱い。まず熱さが来て、遅れて鋭い痛みが走る。
でも動ける。
リンを探さないと。
ミオは松明を掲げて、前に進む。
通路が続く。曲がる。また続く。
どこまで行けばいいのかわからない。でも進む。
リンの声が欲しい。リンの指示が欲しい。
でもリンがいない。
ミオは自分で考えて、自分で判断して、前に進むしかない。
それが怖い。
でも、リンを守るため。
リンを探すため。
ミオは歩き続けた。
*
リンは通路を進んでいた。
魔物を何体か倒した。魔力を使いすぎた。頭がぼんやりする。甘いものが欲しい。でも何もない。
でも動ける。
ミオを探さないと。
リンは松明を掲げて、前に進む。
魔力感知を使う。ミオの気配を探す。でも感じない。魔物の気配だけ。
リンは歩き続けた。
過去のフラッシュバックが、何度も蘇る。でも振り払う。
今は違う。
今は、私が動く。
リンは前を向いた。
*
ミオは立ち止まった。
前方の通路が、開けた場所に続いている。
何かある。
ミオは慎重に進んだ。
広い空間に出た。天井が高い。壁に古い彫刻が刻まれている。
ミオは周囲を見た。
通路が複数ある。どこから来たのか、もうわからない。
どっちに行けばいい。
ミオは考えた。
リンなら、どうする。
リンなら、魔力感知で探す。
でもミオにはそれができない。
ミオは松明を掲げた。光が広がる。
通路を一つずつ見る。
どれも同じに見える。
わからない。
ミオは目を閉じた。
リンの匂いを思い出す。本と、ちょっと埃っぽい匂い。
リンの声を思い出す。冷たいけど、優しい声。
リンの体温を思い出す。小さくて冷たい手。でも握り返してくる力は強い。
ミオは目を開けた。
右の通路を選んだ。理由はない。ただ、何となく。
でも、不思議と。
リンもこっちに来てる気がする。
根拠はない。ただの勘。でも、そう思った。
ミオは歩き出した。
*
リンは立ち止まった。
前方の通路が、開けた場所に続いている。
リンは慎重に進んだ。
広い空間に出た。天井が高い。壁に古い彫刻が刻まれている。
リンは魔力を感じ取った。魔物の気配。でもミオの気配は感じない。
でも、諦めない。
リンは通路を選んだ。左の通路。魔力の流れが、そちらに向かっている気がする。
リンは歩き出した。
*
二人は、それぞれの通路を進んでいた。
暗闇の中、一人で。
手が震える。呼吸が浅い。全身が痛い。
でも止まらない。
リンはミオを探している。
ミオはリンを探している。
お互いの名前を呼ぶ。
「ミオ……」
「リン……」
でも声は届かない。闇に消える。
二人は、同じ方向に進んでいる。
でも、まだ会えない。
暗闇が、二人を隔てている。
それでも、二人は歩き続けた。
震えながら。
恐怖に押しつぶされそうになりながら。
それでも、相手を探して。
一人で、歩き続けた。