暗闇の中を進む。

ダンジョンの空気が肌にまとわりつく。かび臭い。湿気と、何か腐ったような匂いが混ざっている。足元の石が濡れていて、一歩ごとに滑りそうになる。

リンは前を見た。松明の光が、壁に不規則な影を作っている。ミオが剣を構えている。リンの少し前を歩いて、周囲を警戒している。

「ミオ、右」

リンの声が、静かに響く。

ミオが反応する。剣を構え直す。暗闇の奥から、何かが這い出してくる。魔物だ。人の背丈ほどの蜘蛛。八つの脚が石床を叩く音が、リンの鼓膜に刺さる。

「行く」

ミオが地を蹴った。剣が弧を描く。魔物の脚を斬る。緑色の体液が飛び散る。魔物が倒れる。動かない。

「次、左後ろ」

リンが魔力を感じ取る。複数の気配。小型の魔物が群れで来る。

「うん」

ミオが振り返る。剣を横薙ぎに払う。一度に三体を斬り倒す。血の匂いが、緑色の体液の匂いと混ざる。鉄と、腐肉の匂い。

リンは呼吸を整えた。胸の奥が詰まったような感覚。肺に空気がうまく入らない。

浅層を抜けて、中層を抜けた。今は深層に近い。魔物の密度が上がっている。一度に複数が来る。止まれない。止まったら追いつかれる。

リンは背後を振り返った。気配はまだ感じない。でも、来る。追ってくる。

あの黒いローブの男たち。聖カタリナ院の追手。

リンは前を向いた。ミオが振り返って、リンを見ている。

「リン、疲れてる?」

「平気」

リンは答えた。でも嘘だ。足が重い。肩が痛い。首を回すとゴリゴリと鳴る。魔力を使いすぎた。頭がぼんやりする。

でも止まれない。

「もう少し進むわ。深層まで行けば、あいつらも追ってこれないはず」

「わかった」

ミオが頷く。二人は歩き出した。

松明の光が揺れる。影が壁を這う。リンの心臓が、静かに、でも強く打っている。

背後から、気配が来た。

リンの背筋が凍る。魔力感知が反応する。人だ。複数。距離が近い。

「来た。追いつかれる」

リンの声が震えた。ミオが振り返る。

「どうする?」

「走る。でも、戦う準備をして」

二人は速度を上げた。足音が石床に反響する。リンの呼吸が荒くなる。心臓が喉まで上がってきたような圧迫感。

背後から、声が聞こえた。

「逃がすな。ミオを回収しろ」

冷たい声。あの男の声だ。

リンは歯を食いしばった。足が竦みそうになる。でもミオの背中が見える。銀色の髪が揺れている。止まれない。

「リン!」

ミオが叫ぶ。前方に魔物が現れた。大型の獣。牙が松明の光を反射している。

「右に避けて!」

リンが指示を出す。ミオが右に飛ぶ。リンも続く。獣が飛びかかる。リンの目の前を巨大な体が通り過ぎる。風圧が頬を撫でる。

獣が壁に激突する。でも振り返る。再び襲いかかろうとする。

その時、背後から黒い影が飛び出した。

黒いローブの男。その手に、剣が光っている。男が獣を一閃する。獣が倒れる。血が飛び散る。

男がリンとミオを見た。

「観念しろ。無駄な抵抗はやめろ」

リンは立ち止まった。ミオが剣を構える。

男の後ろから、もう二人、ローブの男が現れた。三人。全員が武器を持っている。

リンは魔力を集中した。手が震える。でも集中する。

「ミオ、左から」

「うん!」

ミオが地を蹴った。左の男に斬りかかる。男が剣で受ける。金属が激突する音。火花が散る。

リンは魔力を放った。魔法弾が右の男に飛ぶ。男が避ける。壁に当たって砕ける。

中央の男がリンに向かってくる。リンは後ろに跳んだ。男の剣が空を切る。

「ミオ!」

「わかった!」

ミオが振り返る。中央の男に斬りかかる。男が剣を振る。ミオが受ける。

リンは呼吸を整えた。肺が痛い。息を吸うたびに、胸の奥がきしむ。

戦闘が続く。ミオが一人を押している。リンが魔法で牽制する。でも敵は慣れている。冒険者だ。それも、熟練の。

リンの視界が狭くなる。心臓の音だけがうるさい。集中しろ。指示を出せ。

「ミオ、下がって!」

ミオが後ろに跳ぶ。リンが魔法を放つ。三人の男の足元に。爆発。煙が上がる。

「今よ!」

二人は走り出した。煙の中を抜ける。男たちの声が背後から聞こえる。でも距離が開いた。

リンは前を見た。通路が続いている。奥に、開けた場所が見える。

「あそこまで!」

二人は走った。

開けた場所に出た。

広い空間。天井が高い。壁に古い彫刻が刻まれている。床は石の板が敷き詰められている。

リンは立ち止まった。呼吸が荒い。全身が震えている。力を入れようとしても、筋肉が応えない。

ミオも息が上がっている。額に汗が流れている。服が肌に張り付いている。

「リン、ここ……」

ミオが周囲を見ている。警戒している。

リンは魔力を感じ取った。敵の気配は、まだ追ってきている。でも少し距離がある。

「休めるわ。少しだけ」

リンはその場に座り込んだ。足が棒のよう。一歩も動けない。

ミオがリンの隣に座る。肩が触れる。温かい。リンの冷えた体に、ミオの体温が伝わってくる。

「リン、大丈夫?」

「……平気」

リンは答えた。でも声が震えている。

ミオがリンの手を握った。小さくて冷たい手。でも握り返してくる力は強い。

「もう少し。もう少し進めば」

リンの声が、自分を励ますように響く。

その時だった。

背後から、足音が聞こえた。

リンは振り返った。通路の奥から、黒いローブの男たちが現れた。三人。全員が武器を構えている。

「終わりだ」

男の声が、冷たく響く。

リンは立ち上がった。ミオも立つ。剣を構える。

「ミオ、私の後ろに」

「嫌。ミオが守る」

ミオがリンの前に出る。

リンはミオの手を掴んだ。

「ミオ、離さないから」

ミオがリンを見た。琥珀色の瞳が揺れている。

「うん。ミオも離さない」

男たちが近づいてくる。

リンは魔力を集中した。でも体が重い。魔力が集まらない。使いすぎた。限界が近い。

男たちが剣を振り上げた。

その瞬間。

足元の感覚が、消えた。

床が崩れた。

石の板が砕ける。支えがなくなる。体が浮く。

「——っ!」

リンの体が落下する。暗闇が視界を覆う。耳鳴りがする。心臓が跳ねる。

「ミオ!」

リンが叫ぶ。手を伸ばす。

「リン——!」

ミオの声が聞こえる。でも遠い。違う方向から聞こえる。

リンは手を伸ばし続けた。でも何も掴めない。空を掴む。ミオの姿が見えない。暗闇だけが広がっている。

体が何かに激突した。

鈍い衝撃。肩が痛い。肋骨が痛い。息が止まる。

リンは転がった。石の床を何度も転がる。体が痛い。全身が悲鳴を上げる。

止まった。

リンは動けなかった。体が重い。息ができない。肺が縮んだみたいに、うまく吸えない。

しばらくして、呼吸が戻った。浅い呼吸。でも空気が入ってくる。

リンは体を起こした。腕が痛い。足が痛い。でも骨は折れていない。動ける。

周囲を見た。

暗い。松明が落ちている。光が弱い。でもぼんやりと見える。

狭い空間。壁に囲まれている。天井が低い。上を見上げる。崩れた床の跡が見える。高い。戻れない。

リンは周囲を見渡した。

ミオがいない。

声がしない。

一人だ。

リンの心臓が、強く打った。

「ミオ……?」

リンの声が、震えた。

返事がない。

静寂だけが、リンを包んでいる。

リンは立ち上がった。足がふらつく。壁に手をついて支える。冷たい石の感触。

「ミオ!」

叫ぶ。声が壁に反響する。でも返事はない。

リンの呼吸が浅くなった。肺が縮む。空気が入らない。

手が震える。全身が震える。

一人だ。

また一人になった。

また失敗した。

リンの視界が、歪んだ。

暗い。

ダンジョンの中だ。松明の光が、壁に影を作っている。

リンは指示を出している。

「左に2体、右に1体。まず右から」

計画通り。完璧だ。

でも、崩れた。

増援。退路が塞がれる。

一人が倒れる。また一人。また一人。

マルコがリンを庇う。背中が裂ける。血の匂い。鉄の匂い。

「——お前は生きろ」

マルコの声が遠くなる。

「大丈夫だって言ったのに……」

暗闇の中、一人で這って逃げる。

また失敗した。また誰かを死なせた。

私の判断が間違っていた。

私が動けなかったから。

私が——

リンは壁に背中をつけて座り込んだ。

呼吸ができない。過呼吸気味になる。心臓がうるさい。視界が狭くなる。周辺が暗い。

手が震える。握れない。爪が掌に食い込む。でも握れない。

また失敗した。

ミオを失った。

また一人になった。

「だめ、だめだめだめ……」

リンの声が、震えた。

涙が出そうになる。こらえようとしても、目頭が熱い。

でも、泣けない。泣いてる場合じゃない。

動け。

ミオを探せ。

リンは深く息を吸った。肺の奥まで空気が入っていく。でもすぐに吐き出す。また吸う。また吐く。

呼吸を整える。手が震える。でも動く。

立ち上がる。足がふらつく。壁に手をついて支える。

「ミオを探す。動け。動け」

リンは自分に言い聞かせた。

でも足が進まない。

また失敗したら。

また判断を間違えたら。

ミオが死んだら。

リンの足が、竦んだ。

ミオは暗闇の中にいた。

体が痛い。肩が痛い。腰が痛い。足が痛い。

でも動ける。ミオは立ち上がった。

周囲を見た。

暗い。狭い空間。壁に囲まれている。

リンがいない。

ミオの心臓が跳ねた。

「リン……?」

ミオの声が、震えた。

返事がない。

ミオは周囲を見渡した。松明が転がっている。拾う。火がついている。光が広がる。

でもリンの姿はない。

「リン!」

叫ぶ。声が反響する。でも返事はない。

ミオの呼吸が浅くなった。

リンがいない。

指示がない。

どうすればいい。

ミオは立ち尽くした。

手が震える。松明を持つ手が震える。冷や汗が背中を伝う。

呼吸が浅い。肺が縮んだみたい。うまく吸えない。

どうすればいい。

ミオの頭の中で、声が響いた。

孤児院の管理者の声。

「考えるな。言われた通りにしろ」

冷たい声。

「自分で判断するな。お前は従うだけでいい」

ミオは頭を振った。

違う。

ミオは今、リンの指示がない。

誰も指示してくれない。

でも、リンの声も聞こえる。

「私の指示通りに」

リンの声。優しい声。

でも今、リンがいない。

指示がない。

どうすればいいの。

ミオは座り込んだ。膝を抱える。

「わかんない、わかんない……」

ミオの声が、震えた。

呼吸が浅い。過呼吸気味になる。視界がぼやける。

「リン……リン……」

ミオはリンの名前を繰り返した。

でも返事はない。

ミオの手が震える。全身が震える。

寒い。あったかくない。

リンの体温が欲しい。リンの匂いが欲しい。リンの声が欲しい。

でもいない。

一人だ。

ミオは目を閉じた。

暗闇の中、一人。

何も聞こえない。何も見えない。

リンがいない。

ミオの呼吸が、止まりそうになる。

でも、心臓が打っている。

リンを探さないと。

リンを守らないと。

それだけは、ミオが決めたこと。

ミオは目を開けた。

でも体が動かない。

どうすればいいかわからない。

どっちに行けばいいのかわからない。

何をすればいいのかわからない。

ミオは暗闇の中で、震え続けた。

二人は、完全に分断された。

連絡手段はない。

声も届かない。

暗闇の中、それぞれが一人で、震えている。

離れた瞬間、二人の体が症状を示し始めた。

手が震える。呼吸が浅くなる。視界が狭くなる。

依存の代償が、今、本格的に現れ始めている。

それでも、二人は同じことを考えていた。

相手を探さないと。

相手を守らないと。

相手がいないと、生きていけない。

暗闇の中、二人の心が、同じ方向を向いている。

でも、体は動かない。

恐怖が、二人を縛り付けている。

リンは過去のトラウマに。

ミオは孤児院の教えに。

二人は、それぞれの地獄の中で、相手の名前を呼び続けていた。