リンは一睡もできなかった。

隣でミオが眠っている。小さく丸まって、リンの服を握っている。でも震えは止まっていない。寝ているのに、体が緊張を解かない。

窓の外が白み始めている。朝が来た。でもリンの胸の奥にある不安は、明るくならない。

リンは小さく息を吐いた。ミオの髪を撫でる。銀色の髪が指の間をすり抜ける。柔らかい。でも温かくない。

どうすればいい。

リンの頭が、昨夜からずっと答えを探している。でも見つからない。逃げる? 戦う? 誰かに助けを求める? どれも正解に思えない。どれも失敗しそうだ。

また失敗したら。また誰かを失ったら。

リンの手が震えた。

その時、宿の扉がノックされた。

リンの心臓が跳ねる。ミオが目を覚ます。

「リン……?」

「平気。私が出るわ」

リンは立ち上がった。扉を開ける。ギルドの使いが立っていた。昨日と同じ若い男だ。緊張した顔で告げる。

「リン様、ミオ様。ギルドマスターが至急お呼びです」

リンは頷いた。扉を閉める。ミオがリンを見ている。不安そうな顔。

「行くわよ」

二人は宿を出た。

ギルドマスター室の扉を開けた瞬間、リンは空気の重さを感じた。

ヴェルナーが机に座っている。その表情が、いつもより硬い。そして部屋の隅に、昨日の黒いローブの男が立っていた。顔は相変わらず影で見えない。でもその存在感が、部屋を冷やしている。

「座れ」

ヴェルナーの声。リンとミオは椅子に座った。ミオがリンの袖を掴んでいる。

ヴェルナーは二人を見た。そして、低い声で言った。

「あいつらが最後通牒を出してきた」

リンの背筋が凍る。

「明日の日没までにミオを渡せ。さもなくば、実力行使に出る、と」

ミオの手が震えた。リンはミオの手を握る。冷たい。

黒いローブの男が口を開いた。

「我々の商品を返していただきたい。それだけだ。穏便に済ませたい」

リンは男を睨んだ。

「ミオは商品じゃない」

男は肩をすくめた。

「商品でないなら、何だ? 不良品か?」

その言葉に、ミオの体が震えた。リンはミオの手を強く握った。

「では何だ? お前の所有物か?」

男の声が、皮肉を含んでいる。リンは唇を噛んだ。

「……私のパートナーよ」

「パートナー? それは興味深い」

男は一歩、前に出た。

「だが、我々は法的な権利を持っている。聖カタリナ院は孤児を保護し、教育を施し、社会に送り出す認可を受けた機関だ」

「保護? 教育?」

リンの声が低くなる。

「聞こえはいいわね。実際は、従順な商品を作ってるだけでしょ」

男は動じない。

「我々の教育方針を批判する権利は、あなたにはない」

リンは立ち上がった。ミオを庇うように。

「帰って。ミオは渡さない」

男はしばらく黙っていた。そして、静かに言った。

「明日の日没まで待つ。それ以降は、我々も手段を選ばない」

男は部屋を出て行った。扉が閉まる。

静寂が戻る。

ヴェルナーが言った。

「……すまん」

リンは振り返った。

「ギルドは中立だ。冒険者の私的な問題には介入しない。それが規則だ」

「じゃあ、私たちを見捨てるの?」

「そうは言っていない」

ヴェルナーは立ち上がった。窓の外を見る。

「だが、ギルドにも限界がある。公式には守れない。……すまん」

リンは拳を握った。爪が掌に食い込む。

ギルドのロビーに戻ると、カインが待っていた。

金髪の男。Bランク冒険者。リンたちに何度か声をかけてきた男だ。

「リン、ミオ。話は聞いた」

カインが二人に近づく。真剣な顔。

「俺たちのパーティで匿うか? 人数がいれば、少しは」

リンは首を振った。

「巻き込めない。これは私たちの問題」

「お前たちだけで戦えるわけないだろ」

カインの声が強くなる。

「相手は組織だ。ギルドが動けない以上、個人で抵抗するのは無謀だ」

「……わかってる」

リンは答えた。でも声が震えている。

「わかってるけど……」

カインはリンの肩に手を置いた。

「無理すんな。俺たちは味方だ」

リンは顔を上げた。カインの目が、本気だ。心配している。

でも、リンは首を振った。

「ありがとう。でも、巻き込めない」

カインは溜息をついた。

「……わかった。でも、何かあったら言え。すぐに駆けつける」

リンは頷いた。カインが去る。

ミオがリンの袖を引いた。

「リン……どうするの?」

リンは答えられなかった。

二人は宿に戻った。部屋に入る。扉を閉める。鍵をかける。

リンはベッドに座った。頭を抱える。

選択肢を考える。でもどれも駄目だ。

ギルドは守れない。他のパーティに頼むのは巻き込むことになる。戦う? 相手は組織だ。勝てるわけがない。

じゃあ、どうする。

リンの頭が、高速で回転する。でも答えが出ない。視界が狭くなる。心臓がうるさい。呼吸が浅くなる。

その時だった。

リンの視界が、歪んだ。

暗い。

ダンジョンの中だ。松明の光が、壁に影を作っている。

リンは指示を出している。

「左に2体、右に1体。まず右から」

前衛が動く。マルコが剣を振る。敵が倒れる。

「次、左。私が魔力で牽制する」

計画通り。完璧だ。

でも、次の瞬間。

崩れた。

想定外の増援。退路が塞がれる。

「——っ!」

一人が倒れる。血の匂い。鉄の匂い。

また一人。また一人。

リンは何もできない。ただ見ているだけ。

マルコがリンを庇う。背中が裂ける。

「——お前は生きろ」

マルコの声が、遠くなる。

「大丈夫だって言ったのに……」

暗闇の中、一人で這って逃げる。体が震える。呼吸ができない。

また失敗した。また誰かを死なせた。

「——リン!」

ミオの声。

リンの視界が戻る。

ミオが目の前にいる。心配そうな顔。リンの肩を掴んでいる。

「リン、大丈夫?」

リンは気づいた。自分の手が震えている。全身が震えている。呼吸が浅い。

「……ごめん」

リンの声が、か細い。

「大丈夫。ちょっと……」

「リン、こわい顔してた」

ミオがリンを抱きしめる。温かい。でもリンの震えは止まらない。

また、あの時が蘇った。

選択を迫られると、あの時が蘇る。

また失敗したら。また誰かを失ったら。

リンは目を閉じた。ミオの体温が伝わってくる。それだけが、リンを現実に繋ぎ止めている。

しばらくして、ミオがリンから離れた。

ミオがリンを見ている。琥珀色の瞳が、リンを捉えている。

そして、ミオが口を開いた。

「……ミオが行けば、リンは安全?」

リンの心臓が止まった。

「何を言ってるの」

リンの声が震える。

「ミオが、あの人たちのところに戻れば。リンは、傷つかないでしょ?」

「——っ!」

リンはミオの肩を掴んだ。

「何を言ってるの! 絶対に駄目!」

「でも——」

「絶対に渡さない! 誰にも!」

リンの声が叫びになる。ミオが驚いた顔をする。

リンは息を整えた。ミオの目を見る。

「あなたを失うのは、嫌」

リンの声が、震えた。

「私も、あなたがいないと……何もできない」

ミオの目が揺れた。

「リン……」

「一人じゃ駄目なの。私、一人じゃ動けない。考えられない」

リンの目から、涙が零れた。

「だから、離れないで」

ミオがリンを抱きしめた。

「リンが傷つくの、やだ」

ミオの声が震えている。

「ミオも、リンがいないと……わかんなくなる」

二人は抱き合ったまま、黙っていた。

しばらくして、リンが口を開いた。

「……選択肢を消していくわ」

リンの声が、少しだけ落ち着きを取り戻している。

「ギルドは守れない。他のパーティも巻き込めない。戦っても勝てない」

ミオがリンを見ている。

「じゃあ……」

「逃げる」

リンはミオの目を見た。

「ダンジョンに逃げ込む。深層なら、あいつらも追ってこれない」

ミオの目が見開かれる。

「一緒に?」

「当たり前でしょ」

リンの声が、少しだけ強くなった。

「二人で逃げる。そして……しばらく隠れる」

ミオが頷いた。

「うん。リンと一緒なら、どこでも」

リンはミオの手を握った。

「今夜、深夜に出発する。荷物は最小限。食料と武器だけ」

「わかった」

ミオの目に、光が戻っている。

リンは深く息を吸った。

これが正しい選択かどうか、わからない。

でも、他に方法がない。

二人で逃げる。二人で生き延びる。

それしかない。

深夜。

街が静まり返っている。月明かりが、石畳を照らしている。

リンとミオは宿を出た。誰にも気づかれないように。足音を殺して。

ギルドを迂回する。街の外れに向かう。

ダンジョンの入口が見える。

暗い穴。そこから冷たい空気が流れてくる。かび臭い。湿気と、何か腐ったような匂い。

リンは立ち止まった。

戻ってこれるかわからない。

深層は危険だ。浅層とは比べ物にならない。死亡率は40%。帰還できる保証はない。

でも、ここに残れば、ミオを奪われる。

リンはミオの手を握った。

「怖い?」

「……うん」

ミオが正直に答える。

「でも、リンと一緒だから」

リンは小さく笑った。

「私も怖いわ。でも、あなたがいるから」

二人は手を繋いだまま、ダンジョンの入口に立った。

暗闇が二人を飲み込もうとしている。でも二人は止まらない。

一歩、踏み出す。

冷たい空気が肌を撫でる。視界が暗くなる。

でも、手の温かさだけは消えない。

リンはミオを見た。ミオがリンを見ている。

二人は頷いた。

そして、暗闇の中へ、進んだ。

選択は終わった。

これから先は、生き延びるだけだ。

二人で。