朝の光が、いつもより冷たく感じた。

リンは目を開けた。眠れていなかった。瞼が重い。でも体が起きることを拒んでいる。隣でミオが寝息を立てている。いつもと同じ光景。でもリンの胸の奥には、昨夜から消えない不安が居座っている。

あの男。黒いローブ。ミオを見ていた視線。

リンは小さく息を吐いた。首筋がざわつく。何かが近づいている。理由はわからない。でも本能が警告している。

ミオが目を覚ました。琥珀色の瞳がゆっくりとリンを捉える。

「おはよ、リン」

声が明るい。昨日と同じ。何も変わっていない。でもリンの中では、何かが確実に変わり始めている。

「……ええ」

リンは答えた。ミオが笑顔でリンに抱きつく。温かい。でもリンの体は、冷たいままだ。

ミオが首を傾げる。

「リン、顔色悪い。大丈夫?」

「平気よ」

リンは嘘をついた。心配をかけたくない。ミオの表情から笑顔が消えてほしくない。

でも、平気じゃない。

朝食を済ませて、ギルドに向かおうとしていた時だった。

宿の扉をノックする音。リンが扉を開けると、ギルドの使いが立っていた。若い男だ。緊張した顔で告げる。

「リン様、ギルドマスターがお呼びです。至急、お越しください」

リンの心臓が跳ねた。ヴェルナーが呼んでいる。それも「至急」。

「……わかったわ」

リンは頷いた。使いが去る。扉を閉める。ミオがリンの裾を掴んでいる。

「リン、何があったの?」

「わからない。……でも、行くわよ」

二人は宿を出た。街の空気は穏やかだ。朝の雑踏。商人の呼び声。でもリンの耳には、それが遠く聞こえる。

ギルドに着く。ロビーを横切る。受付のエルマと目が合う。エルマの表情が、一瞬だけ硬くなった。心配している。でも何も言わない。

ギルドマスター室の扉をノックする。

「入れ」

ヴェルナーの声。低い。いつもより硬い。

リンは扉を開けた。ミオが後ろに続く。部屋に入る。

ヴェルナーが机に座っていた。白髪の老人。でも目は鋭い。かつてSランクだった冒険者の目だ。

「座れ」

リンとミオは椅子に座った。ミオがリンの袖を掴んでいる。離さない。

ヴェルナーは二人を見た。しばらく黙っている。そして、口を開いた。

「お前たちを探している連中がいる」

リンの背筋が凍った。

「昨日、ギルドに来ていた。聖カタリナ院の関係者だ」

聖カタリナ院。

その名前を聞いた瞬間、ミオの体が硬直した。

リンはすぐに気づいた。ミオの手が震えている。呼吸が止まっている。顔が蒼白だ。

「……ミオ?」

リンが呼びかけた。でもミオは反応しない。目が虚ろになっている。どこか遠くを見ている。

リンはミオの手を握った。冷たい。氷のように冷たい。

「ミオ!」

リンの声に、ミオが少しだけ反応する。でもまだ虚ろだ。

ヴェルナーが続ける。

「あいつらは『商品』を探している。孤児院から逃げた子供を、回収するつもりらしい」

商品。

その言葉が、ミオの中で何かを呼び起こした。

ミオの視界が歪んだ。

聖カタリナ院。

その名前が、全てを思い出させる。

暗い部屋。冷たい床。閉じ込められた記憶。

「考えるな。言われた通りにしろ」

誰かの声が蘇る。冷たい声。命令の声。

「自分で判断するな。お前は商品だ」

食事を抜かれた日々。外に立たされた雨の夜。殴られた痛み。

従わなければ罰を受ける。だから従った。考えることをやめた。機械になった。それが「正しい」ことだった。

でも、逃げた。

孤児院を出た。冒険者になった。

リンと出会った。

リンの指示に従った。でもそれは「孤児院の指示」とは違った。リンの声は、冷たくなかった。リンの命令は、罰じゃなかった。

でも今。

聖カタリナ院の名前が、ミオを過去に引き戻す。

体が動かない。声が出ない。息ができない。

考えるな。言われた通りにしろ。

ミオの中で、あの声が繰り返される。

「——ミオ!」

遠くで、誰かが呼んでいる。

リンだ。

ミオはゆっくりと視界を戻した。リンが目の前にいる。心配そうな顔。でもミオは、何も言えない。

体が、動かない。

リンはミオを抱きしめた。震えている。全身が、小刻みに震えている。

「大丈夫。私がいるから」

リンの声が、ミオの耳に届く。でもミオは反応しない。リンの胸に顔を埋めて、固まっている。

ヴェルナーが言った。

「あいつらは、今日また来る。お前たちに『話がある』と」

リンは顔を上げた。ヴェルナーを睨む。

「断って」

「……それができれば呼んでいない」

ヴェルナーの表情が、少しだけ苦い。

「ギルドは中立だ。冒険者の私的な問題には介入しない。それが規則だ」

「じゃあ、ミオを引き渡せと?」

「そうは言っていない」

ヴェルナーは立ち上がった。窓の外を見る。

「だが、俺にも限界がある。あいつらがギルドに圧力をかけてきたら、俺は止められない」

リンは唇を噛んだ。ミオを抱きしめる力が強くなる。

その時、扉がノックされた。

「ギルドマスター、来客です」

ヴェルナーが頷く。

「通せ」

扉が開いた。

黒いローブの男が入ってくる。

昨日、ロビーでミオを見ていた男だ。顔は影で見えない。でもその存在感が、部屋の空気を冷やす。

男はリンとミオを見た。そして、口を開いた。

「我々の商品を、返していただきたい」

リンの中で、何かが弾けた。

「関係ない。帰れ」

リンの声が、低く響く。男は動じない。

「あの子は、聖カタリナ院の所有物だ。勝手に連れ出すことは許されない」

「所有物?」

リンは立ち上がった。ミオを背中に庇う。

「ふざけないで。ミオは私のパートナーよ。商品じゃない」

男は静かに言った。

「我々は、あの子を『育てた』。教育を施した。投資をした。それを回収する権利がある」

「そんな権利、認めない」

リンの手が震えている。怒りなのか、恐怖なのか、自分でもわからない。でもミオを渡すわけにはいかない。絶対に。

男は一歩、前に出た。リンは後ずさる。ミオを守るように。

「考えておけ。次は、穏やかじゃない」

男はそれだけ言って、部屋を出て行った。

扉が閉まる。

静寂が戻る。

リンの膝が震えた。力が抜ける。でもミオを離さない。

ヴェルナーが言った。

「……気をつけろ。あいつらは、しつこい」

リンは頷いた。でも声は出なかった。

ヴェルナーは窓に向き直った。外を見ながら、低く呟く。

「少し調べさせる。あの孤児院のことをな」

リンは顔を上げた。でもヴェルナーはそれ以上何も言わなかった。

宿に戻った。

リンとミオは、部屋に入った。扉を閉める。鍵をかける。

ミオがベッドに座った。でもまだ震えている。目が虚ろだ。

リンはミオの隣に座った。手を握る。冷たい。

「話して」

リンの声が、ミオの耳に届く。ミオはゆっくりと口を開いた。

「……ミオは、商品だったの」

声が小さい。か細い。

「孤児院で、育てられた。考えるなって言われた。言われた通りにしろって」

ミオの手が、リンの手を強く握る。

「従わないと、罰を受けるから」

リンは黙って聞いていた。ミオの言葉が、途切れ途切れに続く。

「暗い部屋に閉じ込められた。食事を抜かれた。殴られた」

ミオの目から、涙が零れた。

「考えることをやめた。そしたら、楽だったから」

リンはミオを抱きしめた。小さな体が、震えている。

「絶対に渡さない」

リンの声が、静かに響く。

「誰が来ても、絶対に」

ミオがリンにしがみつく。離さない。

「リン……」

「大丈夫。私がいるから」

リンはミオの髪を撫でた。銀色の髪が指の間をすり抜ける。柔らかい。

でも、リンの心臓は早い。恐怖が消えない。

あの男たちは、また来る。

そして次は、穏やかじゃない。

どうすればいい。

リンの頭が、高速で回転する。逃げる? 戦う? ギルドに助けを求める?

でも答えが出ない。

ミオがいないと、考えられない。ミオを守らなきゃいけない。でもどうやって。

リンの手が震えた。

夜になった。

リンとミオは、ベッドに入った。いつものように一緒に。でもいつもと違う。

ミオがリンにくっついている。離れない。でもその様子が、おかしい。

従順すぎる。

ミオは何も言わない。リンの指示を待っている。でもそれは、いつものミオじゃない。

「ミオ」

リンが呼びかけた。ミオが顔を上げる。

「大丈夫?」

「……うん」

ミオの声が、機械的だ。感情がない。

「リン……リンが言う通りにする」

ミオの目が、虚ろだ。

「だから、見捨てないで」

リンの背筋が凍った。

これは、ミオじゃない。

孤児院のミオだ。考えることをやめた、機械のミオだ。

リンはミオを抱きしめた。でもミオの震えは止まらない。

「見捨てないわ。絶対に」

リンの声が、震えた。

ミオがリンにしがみつく。爪が食い込むほど強く。

でも震えは、止まらない。

リンはミオの背中を撫でた。でも自分の手も震えている。

どうすればいい。

どうやってミオを守ればいい。

答えが出ない。

リンは目を閉じた。でも眠れない。ミオの震えが、リンの体に伝わってくる。

止まらない。

ミオの震えが、止まらない。

リンの不安が、膨れ上がっていく。

平穏は、完全に終わった。

そして、追跡者は、すぐそこまで来ている。