1

医務室から出てきた少女は、リンの想像とは違っていた。

銀髪のショートボブ。琥珀色の大きな目。168センチ——リンより13センチも高い。見上げる形になる。

でも、目が合った瞬間、その目がきょとんと丸くなった。子供みたいな表情。虚ろさの奥に、無邪気さが透けて見える。

「……あなたがミオ?」

「うん。ミオ。……あなたは?」

「リン。今日から、あなたの——」

何と言えばいい。上司? 指揮官? 保護者?

「——指示を出す人、になると思う」

「しじ?」

ミオは首をかしげた。

「ミオに何すればいいか教えてくれる人?」

「……多分、そう」

「やった」

ミオの顔がぱっと明るくなった。嬉しそうに小さく跳ねる。

「ずっと、誰か教えてくれる人欲しかったの。一人だと、何すればいいかわかんなくて」

リンは眉をひそめた。

登録情報の備考欄。『判断力に深刻な問題あり』。これか。

「……とりあえず、浅層に行くわ。一緒に来て」

「うん!」

ミオがついてくる。リンの後ろを、少し距離を置いて。

ふと気づく。ミオの腕。白系の軽装から覗く肌に、古傷がいくつも見えている。孤児院で、と聞いた。殴られたり、外に立たされたりしたらしい。

「……怪我、もう大丈夫なの」

「うん。もう痛くない」

痛くない。

痛覚が鈍い、とエルマは言っていた。便利なようで、危険。

「……そう」

リンは前を向いた。

嫌な予感がする。この子、本当に大丈夫なのかしら。

でも——。

試してみろ。一回だけでいい。

ヴェルナーの声が、頭に残っている。


2

浅層1階。

リンは入口で立ち止まった。

久しぶりのダンジョン。3年ぶり。

空気が違う。魔力が濃い。かび臭い匂いと、湿気と、何か腐ったような匂いが混じっている。肌がざわつく。首筋に、見えない視線を感じる。

——違う。今は何もいない。これは過去の記憶が蘇っているだけ。

「リン?」

ミオの声で、意識が戻る。

「……何でもない。行くわよ」

歩き出す。空間把握能力が、自動的に起動する。

通路の幅、天井の高さ、曲がり角の位置。頭の中に、地図が描かれていく。壁の向こう側の空間まで、魔力で感知できる。

「この先、右に曲がって。敵はまだいないと思うけど」

「うん」

ミオが素直についてくる。

2階への階段。降りる。湿気が濃くなる。足元の石が、水気を含んでじっとりしている。

魔力の気配。3体。小型。ゴブリンだろう。

「止まって」

ミオが止まる。

「この先、曲がり角の向こうに3体。左に2体、右に1体。——私が魔力で牽制するから、まず右から。その後、左を順番に」

「うん、右から。……行く!」

ミオが飛び出す。

速い。リンの目で追うのがやっとの速度。足音がほとんどしない。

右のゴブリンに斬りかかる。一撃。首が飛ぶ。血が壁に飛び散る。

左に2体が反応する——リンが魔力弾を放つ。威力は低い、でも牽制にはなる。青白い光がゴブリンの顔面を掠める。

その隙に、ミオが距離を詰める。

斬る。斬る。

「——倒した。次は?」

ミオが振り返る。剣に血がついている。顔にも、少し。でも息も切れていない。

リンは目を見開いていた。

速い。正確。指示通り。寸分の迷いもない。

「……次は、この先。もう少し進んでいいと思う」

「うん! ねえリン、ミオ、ちゃんとできてた?」

「……ええ。よくできたわ」

ミオの顔がぱっと明るくなる。尻尾があったら振っていそうな勢い。

「やった!」

ついてくる。リンの服の裾を、無意識に掴んでいる。

「……裾、離して」

「あ、ごめん」

ミオが手を離す。でもすぐにまた、そわそわと手が伸びる。

「……いい。掴んでて」

「いいの?」

「邪魔じゃなければ、だけど」

「やった」

ミオが嬉しそうに笑う。小さく跳ねる。

リンは、少しだけ息を吐いた。

——変な子。

でも、悪くない。


3

3階まで降りた。

ここまで、リンの指示は全て的中していた。敵の位置、罠の場所、安全なルート。ミオは全て、指示通りに動いた。

汗が背中を伝う。久しぶりの緊張感。でも、嫌じゃない。

「リン、すごい。全部当たる」

「……別に。空間把握ができるだけ」

「くうかんはあく?」

「ダンジョンの構造が、頭の中で見えるの。敵の位置も、魔力で感知できる。——説明すると長くなるけど」

「すごい」

「すごくないわよ。私は自分で動けないから」

リンの声が、少し硬くなる。

「私にできるのは、指示を出すことだけ。実際に戦うのは、あなた」

「うん。ミオが戦う。リンが教えてくれる」

ミオは、当たり前のように言った。

「それでいいの。ミオ、一人だと何すればいいかわかんないから。リンがいてくれると、わかる」

リンは黙った。

——この子は、何も疑わない。

私の指示が正しいかどうかも。私が過去に何をしたかも。

「……この先、開けた場所に出る。ボス部屋だと思う。浅層だから、そこまで強くないはずだけど」

「うん」

「視界が広いのは、敵も同じ。慎重に」

「わかった」

ミオが剣を構える。

リンは、一歩下がった。

——ここから先は、ミオに任せるしかない。

私は、動けない。動いたら、また——。

首筋が冷える。嫌な汗が浮かぶ。

でも、今は。

「行って」

「うん!」


4

ボスは、オークだった。

浅層にしては強い。体長2メートル以上。棍棒を振り回している。

でも、ミオの動きはさらに速かった。

「右足を狙って。動きを止めて」

「うん!」

ミオが飛び込む。剣が右足を切り裂く。血が噴き出す。オークがよろめく。悲鳴を上げる。

「左から回り込んで。背中に——」

「——っ!」

ミオが跳ぶ。背中に剣が突き刺さる。深く。肺まで届いたかもしれない。

オークが倒れる。地響きがする。

「……倒した?」

「倒した」

リンは、深く息を吐いた。

肩から力が抜ける。自分で張り詰めていたことに、今さら気づく。手が震えている。——違う、これは緊張の反動。3年ぶりの戦闘指揮。

「リン、大丈夫?」

ミオが近づいてくる。心配そうな顔。

「大丈夫。……あなたこそ、怪我は」

「ない。全部避けれた」

「……そう。いい子だったね」

言ってから、自分で驚いた。何を言っているんだ、私は。

でも、ミオは嬉しそうだった。

「リンに褒められた」

「褒めたんじゃ——」

「褒められた!」

ミオが笑う。汗で銀髪が額に張り付いている。頬に返り血がついている。でも、表情は無邪気そのもの。

——よくやった。

そう言いたい。でも、言えない。その言葉は、別の誰かのものだから。

「ミオ。帰るわよ」

「うん。……ねえ、リン」

「何」

「また、一緒に来てくれる?」

ミオの目が、不安そうに揺れている。

——見捨てないで。置いてかないで。

そう言いたげな目。孤児院で、何度もそう願ったんだろう。

リンは、少しだけ目を逸らした。

「……一回だけって言ったけど」

「うん」

「もう少し、続けてもいいかもしれない」

ミオの顔が、ぱっと明るくなった。

「本当?」

「嘘は言わないわ。——多分」

「やった!」

ミオが飛び跳ねる。リンの手を掴む。

「リン、あったかい」

「……離して」

「やだ」

ミオが笑う。屈託なく。

小さくて冷たい手を、大きな手が包んでいる。——違う、ミオの手が大きいんだ。リンの方が小さい。

「……帰るわよ。報告しないと」

「うん!」

ミオがついてくる。リンの手を、離さないまま。

リンは、振り払わなかった。

——この子を、私が壊してしまったら。

その恐怖は、まだ消えていない。

でも、今日だけは。

今日だけは、うまくいった。


*第02話 了*