1
書類の山が、リンの机を埋め尽くしていた。
依頼書の整理。報酬の計算。死亡届の処理。冒険者ギルドの事務仕事は、終わりがない。
「……次」
黒髪が肩から滑り落ちる。リンはそれを耳にかけ直しながら、書類を一枚めくった。目の下の薄いクマが、蛍光灯の光に浮かび上がる。また眠れなかった。いつものことだけど。
死亡届。今週7人目。
名前を見る。知らない名前。浅層で死んだらしい。初心者パーティ、罠に気づかず全滅。
——罠がある。三歩先、床の色が違う。踏まないで。
自分の声が、脳裏で響く。
違う。これは今じゃない。
視界が狭くなる。周辺が暗くなっていく。耳鳴りがする。心臓の音だけがうるさい。
3年前。中層12階。
マルコの背中が裂ける瞬間。血の匂い——鉄の匂い——舌の上にも広がるような、あの匂い。
——大丈夫だって言ったのに。
「——っ」
左手が、無意識に右腕を掴んでいた。爪が食い込む。痛みで、意識を現実に繋ぎ止める。
1、2、3。数える。4、5、6。
呼吸が浅い。肺が縮んだみたいに、うまく吸えない。7、8、9。10。
目を開ける。書類の山は変わらない。
窓の外では、冒険者たちが忙しそうに行き交っている。武器を担ぎ、仲間と笑い合い、ダンジョンへ向かう。
リンはそれを見ない。見ないようにしている。
見たら、また——。
「リンさん、これもお願いします」
同僚が書類の束を置いていく。リンは頷くだけで、視線を上げなかった。
元Aランクのなれの果てが、事務仕事してるの見て楽しい?
誰に言うでもない皮肉が、胸の中で腐っていく。
「……次」
リンは書類をめくった。
2
ミオは走っていた。
息が上がる。足がもつれる。背中を何かが掠めた——熱い。熱さが先に来て、遅れて鋭い痛みが走る。多分、切れた。深いかどうかは、わからない。いつもわからない。
振り返らない。前だけ見る。出口はどこ。
わかんない。わかんない。
——考えろ。
無理。考え方がわからない。
孤児院の声が蘇る。「自分で考えるな。言われた通りにしろ」
考えると、罰を受ける。食事を抜かれる。外に立たされる。殴られる。
考えない方が、安全だった。
でも今、誰も指示してくれない。
「——っ」
壁にぶつかった。行き止まり。
後ろから、魔物の足音。複数。数えられない。数え方がわからない。
剣を構える。手が震えている。——ううん、全身が震えている。でも怖くない。怖さがわからない。怖いって、どういう感じだっけ。
来た。
最初の一体に斬りかかる。当たった。でも浅い。
「……っ」
二体目が横から。避けられない。腕を噛まれた。
皮膚がヒリヒリと焼けるような感覚。でも、遠い。いつも痛みは遠い。便利だって言われた。でも、気づいた時には手遅れってこともあるって、あの医者は言ってた。
振り払う。斬る。倒した。
三体目。背後から。
——どうすればいい?
考えられない。考える時間がない。だから、前に出る。
斬る。斬る。斬る。
気づいたら、魔物は動かなくなっていた。
ミオは壁にもたれて座り込んだ。息が荒い。視界がぼやける。
腕を見る。肉が抉れている。白いものが見えている。骨かもしれない。血が流れている。熱い。でも痛くない。痛くないのが、一番怖い——怖い? 怖いって、こういうこと?
「……帰らなきゃ」
立ち上がろうとして、膝が折れた。
力が入らない。頭がぼんやりする。甘いものが欲しい。パン食べたい。
這うように、出口を探す。壁伝いに進む。
——どうすればいいの、誰か教えて。
誰も教えてくれない。いつもそう。孤児院を出てから、ずっとそう。
「冒険者になれ」って言われたからなった。自分の意志じゃない。何をすればいいかわからないから、とりあえず前に進む。敵がいたら斬る。それだけ。
パーティに入れてって言ったら、笑われた。「女がソロ? 死ぬよ」って。
死んでない。でも、毎回こうなる。
光が見えた。
外だ。
ミオは地上に転がり出て、そのまま動けなくなった。
「……誰か」
声が出ない。喉が渇いている。空が眩しい。
血が地面に広がっていく。自分の血。あったかい。——ううん、もうぬるくなってきた。
意識が遠くなる。
3
「また、あの銀髪か」
ギルドマスターのヴェルナーは、窓から医務室を見下ろしていた。
担架で運ばれてきた少女。銀髪のショートボブ。全身血まみれ。古傷の上に新しい傷。体のあちこちに痣。それでも意識はある。いつもそうだ。
「今週、何回目だ」
「3回目です」
受付嬢のエルマが答えた。声に呆れが混じっている。
「Eランクのまま、ソロで中層に突っ込んでるらしいですね。毎回瀕死で帰ってきます」
「パーティは組まないのか」
「組めないんですよ。女で、新人で、しかも——」
エルマは言葉を選んだ。
「頭が、その。指示待ちというか。自分で判断できないタイプで」
「使い物にならない、と」
「身体能力は異常なんです。反射速度も、耐久力も、人間離れしてます。痛覚も鈍いみたいで。ただ——」
「判断力がゼロ」
「はい。誰か指示してくれる人がいれば、化けると思いますけど」
ヴェルナーは腕を組んだ。
判断力がゼロ。身体能力は化け物。
脳裏に、別の顔が浮かぶ。
判断力は天才。実行力がゼロ。
「……面白い」
「はい?」
「いや、何でもない。——あの銀髪、孤児院出身だったな」
「ええ。去年、制度で出されて。冒険者登録したのは半年前です」
「どこの孤児院だ」
「東区の聖カタリナ院です。……あそこ、評判悪いですよね」
ヴェルナーは答えなかった。
聖カタリナ院。子供を「従順な労働力」として育てることで有名な施設。自分で考える力を徹底的に潰す。言われた通りに動く人形を量産する。
あの銀髪が「判断できない」のは、そういうことか。
ヴェルナーは執務室に戻った。
机の上に、一枚の書類がある。異動願い。リンの字だ。「このまま事務職を続けたい」と書いてある。
お前が動かないから、代わりに動く駒をつけてやる。
結果が全てだ。過程は問わん。
失敗しても、痛くない。成功すれば、儲けもの。
どちらにせよ、このままでは二人とも腐るだけだ。
「——試してみるか」
4
翌日。
リンは、ギルドマスターに呼び出された。
「……用件は何でしょう」
わかってる。異動願いの却下だろうと思う。
「座れ」
ヴェルナーの執務室は広い。壁一面に、過去の功績を示す盾や証書が飾られている。元Sランク。伝説の冒険者。
リンには、眩しすぎる場所だった。
「単刀直入に言う。お前に、相棒をつける」
「……は?」
「新人だ。身体能力は化け物。判断力はゼロ。毎回死にかけて帰ってくる馬鹿だ」
リンは眉をひそめた。
「私は事務員です。現場には——」
「戻れない。知ってる」
ヴェルナーの目が、リンを射抜く。
「だから、お前は動かなくていい。指示だけ出せ。現場で動くのは、そいつだ」
「……それで、その人が死んだら?」
声が震えた。自分でも気づいていた。
期待しないで。裏切るのは得意だから。
ヴェルナーは表情を変えなかった。
「冒険者は自己責任だ。死んでも誰も責めない」
「でも、私は——」
「お前の才能は知ってる。腐らせておくには惜しい」
沈黙。
リンの左手が、右腕を掴んでいた。爪が食い込む。肩から力が抜けない。張り詰めている。自分で張り詰めていることに、今さら気づく。
「……断ったら?」
「このまま事務仕事を続けろ。誰も止めない」
ヴェルナーは書類を差し出した。
「試してみろ。一回だけでいい。駄目なら、また事務仕事に戻ればいい」
リンは書類を見た。
新人冒険者の登録情報。名前、ミオ。年齢、16歳。ランク、E。
写真がある。銀髪のショートボブ。大きな琥珀色の目。どこか虚ろな表情。
備考欄に、赤字で書いてある。
『判断力に深刻な問題あり。単独行動禁止を推奨。身体能力は規格外』
「……一回だけ」
リンは、自分でも聞こえないくらい小さな声で言った。
私の指示が正しいかなんて、誰にもわからない。私にも。
でも——。
「いい子だったね」
マルコの声が、脳裏で響く。最期に、リンにかけた言葉。
「——よくやった」
違う。よくやってない。私は——。
「明日、顔合わせだ。医務室から出てきたら、そっちに回す」
ヴェルナーの声で、意識が戻る。
リンは頷いた。
書類を持つ手が、かすかに震えていた。
*第01話 了*